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藤本敏夫さん20年忌に集う

2022/08/03
  • 大地を守る会
  • 雑記その他
藤本敏夫さん20年忌に集う

7月31日は、「大地を守る会」初代会長である故・藤本敏夫さんの命日である。
亡くなられたのが2002年(享年58歳)。 今年で20年になる。

その没20年のこの日、関係者が集まって藤本さんを偲ぶ会が催された。

場所は南房総、千葉県鴨川市の山中にある『鴨川自然王国』。
藤本さんが “ 食の自給、環境と調和した農 ” の実践を目指して、
1981年に設立した農場である。
(正式に「大地を守る会」会長を辞任したのは1983年のこと。
  ちなみに僕が入社したのが1982年。ギリギリかぶっている。)

 

遠方からの参加者のために、東京駅からの往復バスが用意されたので、
ありがたく利用させていただくことにした。

朝9時、東京駅前・丸ビル脇を出発。
乗り込んだ乗客は25名ほど。
藤田和芳(現「オイシックス・ラ・大地」会長)夫妻はじめ、
同時代を生きた同志らに交じって、
遠方から駆けつけてきた懐かしい生産者の顔も見えた。
僕はさしずめ藤本さんの薫陶を受けた最後の部下の一人(車内では若手か)、
というレベルなので、大人しく後ろのほうに座らせていただいた。

首都高から東京湾アクアラインに入り、
「海ほたる」での休憩をはさんで2時間半。
幹線道路から山道に入り、さらに大型バスが入れない細い道になって、
お迎えの乗用車に分乗してくねくねと走り、11時半頃、ようやく到着する。

 

藤本敏夫記念館と銘打たれた棟の前で受け付け。
中ではカフェ「En(エン)」も運営されている。

 

バス組が到着して間もなく、法要が始まった。
読経するのは島根県の延命寺住職、
伝燈大阿闍梨(でんとうだいあじゃり) 口羽秀典(くちばしゅうでん)師。
藤本敏夫・登紀子(歌手の加藤登紀子さん)夫妻とは、
生前から深いお付き合いのある住職とのこと。

伝燈大阿闍梨というのは、教義を伝授する指導者(阿闍梨)のなかでも
最高位にあたる地位らしい。
口羽師は東日本大震災後の東北など、各地で供養をして回り、
すでに日本列島を一周したが、まだまだ道半ばだという。

人間だけでなく、すべての生命の成仏を願って全国を巡行脚する姿勢は、
まさに般若心経にある
「願わくばこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、
われらと衆生(一切の生命)と皆ともに仏道を成ぜむことを-」である。

登紀子さんが参列者全員に線香を一本ずつ配って回り、
順番に仏前に供えて手を合わせる。
僕は、藤本さんなら今の世にどういう言葉を浴びせるかを考えながら、
「諦めることなく、自分なりに歩み続けます」と約束する。

 

記念館内では藤本さんの経歴や写真、著書など
各種の資料が展示されていた。

やっぱカッコよかったなぁ、藤本さんは。
女性ファンも多かった。

下の写真は、没後に登紀子さんが編集された『農的幸福論』(家の光協会刊)。
死の床で書いた未完の原稿80枚に、若いころに書かれた文章、
病院で行われた最後のインタビュー、そして亡くなる2ヵ月前に
武部勤農林水産大臣(当時)に出された「建白書」が収録されている。

特に未完の原稿(第1章-夕暮れに山に登れ)を読むと、
自分史に文明論を重ねながら
未来へのビジョンをまとめようとしていたことが窺える。
少年時代までで筆を絶たれた無念さは、いかなるものだったろう。
最後の一行が、読む者の心を重くさせる。
「次に待つ世界は、まさに自己責任の問われる疾風怒濤の青年時代なのだ。」

その波乱万丈の青年時代(学生運動から投獄生活、そして政治活動から
身を引いて農と環境問題に傾斜していく時代)の思索の道程を、
僕らは読むことができない。
とても残念でならないし、悔しい。

 

庭に出れば、自然王国の野菜を使った食材にビールが並べられ、
13時、懇親会へと移る。

献杯の挨拶をするのは「大地を守る会」の創業者の一人であり、
藤本さんの後を引き受けて長く会長を務めてきた藤田和芳さん。

その後は、登紀子さんの進行で順不同で指名があり、
銘々に藤本さんの思い出を語り、功績を称え、
あるいは「藤本なき後の私」を話し出したりする。

参加者の様々な思いが庭園じゅうに伝播していき、
気持ちの良い風がみんなの間を吹き抜けていく。

 

鴨川自然王国を継いだ次女の八恵さん(歌手のYaeさん)が語る。
「私がここを継ぐと決意したのは、なんといってもこの風です」

 

 

庭の片隅に眠る藤本さんも、みんなの語りを聞いて
喜んでくれていることだろう。
風を吹かせながら。
「オレもいるぜ、ここに」と言っているかのように。

 

 

大地を守る会のスタッフが用意してくれた日本酒は、
我が「種蒔人」であった。
気が利いてるね。

死ぬ間際までたたかい続け、周りの人々に、また社会に
タネを蒔き続けた藤本さんにも、これは相応しい酒だと思う。

 

 

プログラムも終盤になって、
Yae さんに加えて登紀子さんの、いややっぱここは、
ファンとしては「おトキさん」と呼ばせてもらって、
二人の歌声も披露された。

 


5月に発売されたウクライナ支援アルバム
「果てなき大地の上に」に収録した
「Imagine(イマジン)」を熱唱するお登紀さん。

 

「私ももう79よ」と笑いながらも、
「藤本が追い求めた “ 農の世界 ” に、そして果たせなかった未来へのビジョンに
 一つでも近づけるように、歌い続け、
 またこの自然王国を、ずっと育てていきたい」

 

最後に記念撮影。

 

参加者に配られた扇子には、
藤本さんがよく口にしていた言葉-『楽しくなきゃ 人生じゃない』が、
したためられていた。
お登紀さんが一本一本、自ら筆で書かれたという。

 

同志社大学在学中、全学連委員長となった藤本さんは、
1968年10月、国際反戦デーでの防衛庁への抗議行動によって逮捕されるが、
半年強の東京拘置所拘留を終えて出所した時には、
学生運動は党派間での争いが暴力を伴う、いわゆる「内ゲバ」が激化していて、
藤本さんは学生運動からの離脱を宣言する。

72年に実刑判決を受け、約2年半の獄中生活を送るなかで、
レコード大賞新人賞の受賞歴もある東大卒の歌手・加藤登紀子さんと結婚する。
芸能人が左翼過激派と「獄中結婚」という一大スキャンダルというワケで、
今ならどうなっちゃうだろう。
当時はまだ左翼学生に対するシンパシーも残っていたのだ。
いややっぱ、突出したカッコいいリーダーだったからなのかもしれない。

お登紀さんが見そめた男として、その後藤本さんは語られた。
でも「歌手・加藤登紀子のダンナ」と紹介されるのを、
藤本さんはとても嫌がっていた。
その気持ちはよく分かる。。。

74年に栃木県黒羽刑務所を出所した翌年、
大地を守る会の前身「大地を守る市民の会」が結成される。
「市民の会」結成の首謀者が藤田さんで、
結成を報じた小さな記事を見てやってきたのが藤本さん。
ちなみに記事を書いたのは、当時毎日新聞の新米記者であった
のちのニュースキャスター・鳥越俊太郎さんである。

76年、二人のタッグで有機農産物の普及を目指す「大地を守る会」が
正式に誕生した。
二人の出会いはけっして偶然ではなく、時代が引き合わせたのだ。

以後、たくさんの若者が引き寄せられるように集まってきた。
僕もその一人だった。

82年、転職したことを四国のおふくろに報告したところ、
母は意味が分からず、電話口で泣いた。
「ほんな妙な仕事させるために大学まで行かせたつもりはない。
 帰ってきぃ!」と。

それから数年後、小さな菜園で採れた野菜を送ってきた際の手紙には
「ぜんぶ無農薬です」とあった。
時代がついてきつつあると実感したものだった。

しかし・・・
今日の世界は、藤本さんが望んだ姿とはかけ離れている。

 

拘置所から出て実刑判決を受ける間の思索のなかで、
藤本さんはこう書いている。

地球の上に土下座して、すべてをそこからはじめたい。

 

いまもまだ響いてくる- と思うのは、僕だけだろうか。

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