「フェアトレード」の前に “ 民衆交易 ” があった
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最終更新日:2020/12/26
あんしんはしんどい日記, 大地を守る会, 生産者・産地情報
12月19日(土)は、二ヵ所の斎場を回ることとなった。
こんな経験、もちろん初めてである。
一人は、オルター・トレード・ジャパン(ATJ)の元代表、
堀田正彦さん。
もう一人は、出版社・コモンズ の代表、大江正章(ただあき)さん。
大江さんが亡くなったと知らされたのは15日、
稲葉光圀さんの告別式からの帰り道だった。
斎場から宇都宮線・石橋駅まで一緒に歩いた
「日本の種子(たね)を守る会」アドバイザーの
印鑰(いんやく)智哉さんが、
電車を待っている間にスマホをチェックしていて、
「大江さんが亡くなった~」と小さな声で呟いたのだった。
僕はその日の行きの電車で、大江さんの新著『有機農業のチカラ』
(10月30日刊)を読み終えたばかりだった。
トドメの一撃!を食らったような気分で、僕は
読んだばかりの本を眺め、あるいはただめくりながら、
ぼんやりと函南に引っ返した。。。
19日は、どちらも葬儀・告別式は親族のみで、
僕ら友人・知人・仕事関係者は「お別れ」の弔問となる。
早朝に函南を立ち、熱海から新幹線は使わず、
東海道線-湘南新宿ライン-西武新宿線と乗り継いで、
江古田駅に降りる。
何とはなしに、根府川の海 を眺めて行きたかったのだ。
大切なことを忘れないようにしよう、そう思って。
江古田駅のトイレで黒のネクタイに締め替え
(締めているところを藤田さん-オイシックス・ラ・大地㈱会長-
に見られた。ちょっと恥ずかしい)、
徒歩2分で江古田斎場に着く。
手を消毒して、体温を測られ、受付を済ませ、
「お別れ」の対面までしばし、写真や映像を眺める。
堀田さんとは、個人的にはさほどのお付き合いではなかった。
ただ、出会いが刺激的で、かつその後の動きに
僕は大きな影響を受けてしまった、そんな一人だ。
時は1986年秋、
過去に何度か書いたことのある「ばななぼうと」という、
時代を画した一大イベントで、僕は堀田さんの存在を知った。
僕ら “ 食の安全と国内の一次産業支援 ” を掲げる自給派に対して、
“ 俺たちは(特に日本は)食で世界とつながっているのだ ”
と問題提起したのが、当時の「ネグロス・キャンペーン委員会」
の堀田さんだった。
同委員会は、フィリピンのネグロス島で起きていた
飢餓救済のために、1986年2月に結成された組織である。
その島は、スペインによる植民地支配から
200年にわたって、島全体が砂糖産業に依存していた。
1980年代前半、砂糖価格の大暴落によって、
農園地主が砂糖キビ生産を中止したことで、
仕事を失った島民たちが生きてゆけなくなり、
子供たちが餓死するまでになった。
それは 「つくられた飢餓」 と呼ばれた。
遠く名も知らない島の飢餓に、実は「加担」しながら、
安穏と食の安全を求める消費者は「犯罪的」ですらあると、
堀田さんは突き付けてきた。
そんなことはもちろん承知している。だからこそ、
我々の自給運動もまた 「連帯」 につながっていて、
ここにいるのだ・・・
いや、まあ、、、いま思い出しても血がざわついてくる。
そんな 「正義論」 をたたかわせた時代があったのだ。
船中で行なわれたシンポジウムは紛糾し、ヒートアップした。
そのへんの話は、かつて大地を守る会のHPで連載したので、
ご参照いただきたい。
その後は、「生活援助から自立支援=共生へ」 となる。
現地の人も言った。
「欲しいのは魚ではなく、魚を獲る方法だ」 と。
搾取される砂糖キビ労働者から “ 自立農民 ” に向かって、
農場が建設され、日本の有機農家との交流が生まれていく。
お金や物資の援助(カンパ活動)で終わらない、
市民レベルで協力し合う経済活動の必要性が議論され、
そこから、伝統的に作られていた砂糖(マスコバト糖)や、
山に自生していたバランゴンバナナの
“ 海を越えた産直 ” 活動が開始された。
その市民レベルでの貿易を担う会社として設立されたのが
ATJである。
1989年、「ばななぼうと」 から3年後のことだった。
大地を守る会はそれでも、ATJ設立には出資して応援しつつ、
バナナも砂糖も 「輸入農産物は扱わない(国産支援)」
の姿勢を堅持した。
ただ徳之島の国産バナナは “ 幻の~ ” と言われて
販売まで至ることは殆どなく、
「ばななぼうと」から10年ほど経って、
ようやく「大地」はバランゴンバナナの販売を開始する。
バランゴンバナナを扱う団体で構成された
通称「バナナ会議」に初めて出席した時、
堀田さんが「ようやく来てくれたね」と
笑って出迎えてくれたのを、僕は今でも覚えている。
以後、エコシュリンプ(エビ)にコーヒー、
パレスチナのオリーブオイルと、ATJとの関係は深まり、
その流れは「互恵のためのアジア民衆基金」設立へと発展した。
今では普通に語られる
「フェアトレード」という言葉もなかった時代に、
その種を蒔き、苗を植えたパイオニアが逝った。
膵臓ガンで7ヶ月の闘病生活だったと聞かされる。
1月1日の誕生日の前に、、、享年72歳。
11時、「お別れ」の対面が始まり、
藤田さんと並んで、手を合わせさせていただく。
アフガンに散った中村医師ではないけれど、
この人もまた、アジアで井戸を掘った人(開拓者)である。
そんな、いわば我々の「創業者」がまた一人、いなくなった。
次の世代として、覚悟が問われるような気がして、しんどいです。。。
合掌
次は、同世代との「お別れ」に向かう。
いったい何という試練か。。。
黙っていると辛いので、藤田さんと二人で軽い会話をしながら、
新宿区上落合「最勝寺」へと移動した。
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