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野田克己さん

2018/09/21
  • あんしんはしんどい日記
  • 大地を守る会
野田克己さん

9月8日(土)六本木にて、
大地を守る会(以下、大地)で27年務められ、
6月に引退された野田克己さんの慰労会が行われた。
他団体の方々もたくさん出席されて、
野田さんの功績の大きさが表れていた。
僕がこの方と一緒に様々な活動を共にしてきて30年以上。
自分の歴史にも一つの区切りがつけられてしまったような、
そんな気分になる、ちょっと切ない慰労会だった。

 

野田克己さん、1991年入社。
大地に入る前は、
日本消費者連盟(以下、日消連)の事務局長という
消費者運動の闘士として、すでにその名を全国に轟かせていた。

「大地」が日消連と一緒に運動することになったのは、
80年代初頭から始まったLL(ロングライフ)ミルク反対運動からだったが、
その後、学校給食の問題はじめ様々なテーマで
行動を共にするようになっていった。
日消連が国や大企業を批判・告発すれば、
「大地」は提案型運動と称して、
具体的な代替案を提示しようというスタイルだった。
LLミルク反対運動から低温殺菌牛乳を実現させ、
学校給食の制度の問題を批判する一方で、
こちらは具体的に無農薬野菜を学校に届けられる仕組みを
せっせと築いていく、という具合である。

僕が「大地」に入社した1982年は
そんな運動が花開いてきた時で、
日消連事務局長・野田克己の名前は、
一方のリーダーの一人として常に耳に入ってきたものだった。

そして僕が、
当時目黒にあった日消連の事務所に出入りするようになったのは、
1986年の秋、コメの自由化に反対する運動からである。
ある日、藤田社長から
「その話し合いがあるので、お前が出て様子を見て来い」
と命令され、共同購入の配達の帰りにトラックで乗り込んだ。
汚れた服に集金袋をじゃらじゃら鳴らしながら会議室に入って、
異物を見るような視線を浴びたことを、今でも思い出す。
居並ぶ闘士を相手に、分散しがちな意見を取りまとめていたのは、
やはり野田さんだった。

そしてこの運動は、「米の輸入に反対する団体連絡会」から始まり、
生産者と消費者の提携によってコメの自給を守っていこうと、
「日本の水田を守ろう!提携米アクションネットワーク」へと発展し、
93年の大冷害と “ 平成の米パニック ” を経て、
減反裁判へと進むことになる。
この一連の活動で、僕は運動の事務局という仕事の
勘所のようなものを野田さんから学んでいったのである。

90年前後だったか、
野田さんが体を壊されて消費者連盟を辞めたことで、
「提携米ネットワーク」の事務局を引き受けたのだが、
その頃「大地」はさらに活動の幅を拡げつつあって、
当時の事務局長である戎谷徹也という頼りない男は、
「手が回らない」と情けなく音を上げていた。
そんな折に藤田会長が三顧の礼を持って迎えたのが
野田さんだった。

 

野田さんが最初に配属されたのは広報室、
室長はワタクシ・戎谷。
広報室の管轄下に設置した「大地を守る会運動局」の局長を
お願いした。
こんな方を部下に従えやりにくい、とは思わなかった。
ポストを奪われてしまう、とも思わなかった。
「エビちゃんがやりやすいように」補佐してくれたのだ。
そうしながら、いろんな局面で組織としての考え方や、
運動の仕切り方を教えてもらった。
もちろん「大地」から学んでもらったこともある。
いわゆる実業という側面だけど、
それも野田さんは実に生真面目に取り組まれた。

二人三脚での仕事が始まって間もなく、
農水省が有機農産物の表示ガイドラインの制定に動き出して、
大地を守る会はその表示規制に対し、
先頭切って反対運動を展開した。
瞬く間に全国的なネットワークがつくられ、
それがやがて「DEVANDA」運動へと発展する。
93年には全国の団体とともに
「森と海と大地のDEVANDA」展を開催。
市民運動が晴海の国際展示場でイベントを開催するという
前代未聞の事件だった。
以降、このネットワークは脱原発や遺伝子組み換え反対など
様々なテーマや局面で力を発揮することになる。
あの時、野田さんがいてくれなかったら
大地が中心的役割を果たせたか、
かなり心許なかったと白状するしかない。

 

国との喧嘩からネットワーク型運動の仕切り役(事務局)まで、
野田さんとタッグを組んでやれたことは、
僕にとって大きな糧になった。
そして97年、僕はわりとスッキリと事務局長を野田さんに託して、
広報から卸しという「大地」の最も生々しい実業部隊に移った。

以後はお互いに別部門で働きながら、
でも時々は一緒に行動しながら、今日まで来た。
野田さんは一貫して大地を守る会の運動に携わりながら、
管理部門の取締役から監査-相談役を経て引退。
僕は農産物の卸し業務から、
有機JAS対応・トレサビリティ体制の構築、
農産の仕入責任者、3.11後の放射能対策などを経て、
子会社であるフルーツバスケットに移り、
単身赴任を続けている。。。
その間、親会社は大きく様変わりしてきて、
ついに一つの節目の時が来てしまったような寂しさを禁じ得ない。

 

野田さんとのツーショットが欲しいと思ったが、
何でかカメラを出す気になれず、
みんなに囲まれている野田さんを見ながら、遠慮した。
二次会での最後の挨拶の際、
ようやく数枚だけシャッターを切った。

奥様の挨拶が簡潔明瞭だった。
「好きなことをずっとやって来れた野田は、幸せだったと思います」

でも、みんなは言う。
野田さんの仕事はまだ終わってない、と。
たしかにそうだ。
たたかってきた落とし前はまだなのだ。
このままご隠居は許されませぬ。

 

日本消費者連盟から大地を守る会を通じて、
これほどまでに「事務局長」の肩書が似合う人はいないと思っていた。
どこかでまた、野田事務局長が壇上で仕切っている姿を
見たいものだと思う、こんなふうに。

いや、それは見れるだろうと思う。
そしてその会場には、僕もきっといるだろうと思う。
だって、僕らがやってきた運動は、まだ何も終わってないんだから。

 

野田さんへ。
長らくのご活躍、お疲れ様でした。
また、有り難うございました。
僕はまだしばらく、実業で頑張ります。
ビジネスを通じて社会課題を解決する、に挑み続けます。

ではまた、次のステージで会いましょう。

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