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「函南町新幹線」 と慰霊碑

2014/10/20
  • かんなみ百景
「函南町新幹線」 と慰霊碑

函南町には 「新幹線」 と名付けられた地区がある。

新幹線区住宅図

戦後復興の国運をかけた東海道新幹線が開通し、
世界最速の高速列車が初めて東京-新大阪間を走り抜けたのは
今から50年前の1964(昭和39)年10月1日。
世は東京オリンピック景気に沸いていた。
今年はその50周年ということで、
記念のTVドラマまで制作されたようだが、
こちら函南の「新幹線」区は、
べつに新幹線開通を祝ってつくられたものではない。
この地名が誕生したのは、実は戦後間もない頃のことである。

東海道線の丹那トンネルが足掛け16年、67名の殉職者を出して
完成したのが1934(昭和9)年のこと。
それから5年もたたぬうちに、
東京-下関間を10時間弱、時速200kmで走るという
超高速計画、いわゆる「弾丸列車計画」が打ち出された。
すでに国政を牛耳る軍部内には、
日本海に海底トンネルを掘って朝鮮半島から北京まで、
さらには満州-シベリア鉄道を経てドイツまで連絡させるという構想まで
あったというから驚きである。

新丹那トンネルの工事が始まったのは1941(昭和16)年8月。
しかし戦況の悪化で2年後に中止となる。
すでに2,080m 掘られていた(新丹那トンネルの長さは7,958m)。

そして戦後の急激な経済復興を背景に、
「新幹線構想」が改めて浮上したのが1958(昭和33)年。
翌年には新丹那トンネルの建設工事から始められ、
4年4カ月の工期を経て1964年1月に完了した。
オリンピックに間に合わせるという決意で、
必死の作業が続いたことが想像される。
またこの間、旧丹那トンネル工事の経験が
数多くの技術革新を生み出していたことも付記しておきたい。

 

さて、函南町新幹線という地名が登場したのは、
いくつかの記録から1948(昭和23)年と推察される。
戦前の弾丸列車構想によってトンネルの掘削工事が始まり、
管理者や技術者たちのための官舎や宿泊所がこの地に置かれた。
当時は地名もなく、「国有鉄道官有無番地」で郵便物は届いていたという。
戦後、役場から行政区名の設定を求められ、
当時の函南工事区長が「いつか走る」と信じて
「新幹線」と名付けた、という話である。

工事終了後、官舎は撤去されて住宅地となった。
現在の正式地名は「函南町上沢」だが、
「新幹線」の名は通称名として使われ続け、
国土地理院の地図にも表記されている。

「幹線上」「幹線下」という路線バスの停留所もある。
「新幹線公民館」 だってある。

新幹線公民館

新幹線開通の14年前にできた「函南町新幹線」。
区内には現在289世帯658人が暮らしている。
新幹線に住んでいる人たち、だ。
開通50周年にあやかろうという空気もなく、
静かに暮らしている。。。
いいんじゃない。

 

新幹線と丹那トンネル話題では、もう一つ紹介しておきたい。
「新幹線」という地名を聞きつけてやってくる
鉄道マニアもいると聞いたけど(どうせなら新幹線に住んではいかがでしょう)、
そういう方に見てほしいのは、ぼく的にはむしろこっちだ。

「丹那隧道 工事殉職者 慰霊碑」

慰霊碑

細い道をつらつらと登った先にある。
案内板もなく、これでは地元の人以外、分からないだろう。
僕も地図であたりをつけながらも、
近所のおばさんに怪しまれながら捜し歩いて、
裏の山道(碑の右手)から発見した次第である。

慰霊碑2

日本の近代化に殉じた人が、ここに67名。
新幹線の光は、土台に眠る魂によって輝いていることを
忘れないようにしたい。

走る新幹線

碑の前で休んでいる間にも、右(熱海)から左(三島)から、
数分おきに弾丸列車が突っ走っていく。
いや、この国は、実に忙しないですな。

手前の線路が東海道線。
山蔭の先に丹那トンネル函南口が覗いている。

丹那トンネル

丹那トンネルの工事は、
丹那盆地の暮らしそのものを変えた大事業だった。
水が失われ、むしろ旗を掲げた農民たちの襲撃が起こり・・・
そのすさまじい攻防の物語は、
作家・吉村昭が『闇を裂く道』(文春文庫)で克明に描いている。
日本近代の姿を切り取った見事なドキュメンタリー小説である。
ぜひ読んでほしい。

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