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金子&大和田-巨星を偲び、未来を語る

2023/04/25
  • 食・農業・環境
金子&大和田-巨星を偲び、未来を語る

《引き続きHPリニュアル作業中のため、遅れ気味でのアップとなっております。
 ご容赦を。》

 

さてと。
農水省との意見交換会レポートを長々と書いてしまったが、
その翌日(3月30日)には、ふたたび東京に出た。
今度は霞ヶ関のお隣、永田町にある憲政記念会館。

昨年相次いで亡くなられた有機農業の偉大な指導者、
埼玉県小川町の金子美登(よしのり)さんと、
鹿児島の大和田世志人(よしと)さんを偲ぶ集まりが、
『有機農業の未来に向けて語る』と題して催された。
参加者は150人ほど。

金子さんは昨年9月24日、田んぼの見回り中に、
心筋梗塞で亡くなられた。享年74歳。
また大和田さんはその一か月前の8月27日、
こちらも突然の大動脈剥離で倒られた。享年73歳。

二人は同世代であり、2006年に「有機農業推進法」を実現させるために
設立された「全国有機農業推進協議会」の、
初代(金子)および2代目(大和田)の理事長である。
一昨年策定された農水省の「みどりの食料システム戦略」には、
提言書をまとめ、成立に大きな役割を果たされた。

 

金子さんは300年続く農家に生まれた。
1968年に農林水産省が創設した「農業大学校」の第一期生で、
在学中に一楽照夫氏(日本有機農業研究会の創設者)の教えを受け、
卒業とともに実家で有機農業の実践に入った。
苦労ののちに編み出した消費者30軒との提携は、野菜に価格をつけず、
消費者が値段を決めて支払うという画期的な取り組みで、
「お礼制」と呼ばれ、有機農業運動の一つのモデルとなった。
また100人を超す国内外からの研修生を育て、
小川町には多数の門徒が住み着いた。
さらには豆腐屋や酒造会社など加工業者とも連携して地域自給を高め、
小川町を “有機の里” として育て上げたばかりか、
有畜複合農業を土台に、エネルギーの自給までやってのけた。
その人柄と人望・実践力は、1999年から5期20年にわたって
小川町議会議員を務められたことでも推し量られる。

初期の有機農業運動のリーダーには原理・原則を重んじる方が多く、
妥協的な取り組みは許されないような雰囲気もあったが、
金子さんは実に温厚で、様々な取り組みを見守るようなタイプだった
(僕の勝手な受け止めですが)。

80年代、大地を守る会が日本有機農業研究会の大会に参加し始めた頃は、
「ここはお前ら商売人の来る場所ではない」と罵られたりしたが、
金子さんは「本物かどうか、見させてもらうよ」的なまなざしで(これも私見です)、
むしろこっちのほうが「逃げられない」感がしてコワいと思ったものだった。

金子さんの農場「霜里農場」には、生産者と一緒に何度か視察させてもらった。
2007年に、農業後継者たちと小川町で「生産者会議」をやったことが
忘れられない。

金子さんと最後に会ったのは、昨年の7月31日。
藤本敏夫さん20回忌の鴨川での偲ぶ会だった。


あれからたった2ヵ月後の、突然の訃報に呆然とした人も多かったと思う。

 

いっぽう大和田さんは、地道に組織を作り上げていった方である。
若いころに水俣病にかかわったのがきっかけで、
脱サラして郷里で有機農業の道に入った。
お子さんがアトピーだったことも「食」に取り組んだ一因だったと聞いている。

1978年に有機農業研究会を発足させたのち、
84年に「かごしま有機生産組合」を設立。
以来、着実に生産者を増やし、現在の組合員は何と160名、
国内最大の有機農業生産団体に成長させた。
他に「地球畑」というお店を3店舗運営し(代表は奥様の明江さん)、
自社農場も広げて研修生を育ててきた。

大和田さんとお会いするのはだいたい東京での集会で、
実際に鹿児島まで訪ねたのは、2回だけである。
2010年7月に開催した「かごしま有機農業フォーラム」で
講演をやらされたのが一番の思い出か。
与えられたテーマは「首都圏における有機農産物の販売動向」。
話した内容はもはやおぼろげだが、
会場との質疑で「かごしま有機の課題は何か」と問われ、
「品質のばらつきである」と偉そうに答えたのを覚えている。
メンバーが増えていく中で品質を常に安定させるのは難しい、
というか、農産物ではほぼ無理な話である。
もちろん大和田さんは、その課題を充分に認識しておられた。

大和田さんと交わした最後の会話は、3年前の1月、
やはり農水省で有機農業推進法に関する意見交換会が行われた後の、
懇親会の場だった。
軽く挨拶したあと、以前から密かに思っていたことを口にした。

「大和田さんて、中村哲さん(医師、ペシャワール会アフガン現地代表、故人)
 に似てますよね。」
大和田さんは一瞬はにかんで、「よく言われます」と応えられた。
その時の何とも可愛い(失礼)笑顔が、
僕にとっての大和田世志人氏の残影である。

 

「未来に向けて語る」会では、篠原孝衆議院議員はじめ、
菅直人さんや川田龍平さん、舟山康江さん、須藤元気さんといった国会議員に、
「みどり戦略」をまとめられた枝元真徹元農水事務次官(大和田さんの高校の後輩)
はじめ何人もの農水省や環境省のOBが、さらには関係者が次々と指名され、
お二人の思い出や功績を語られた。
国会議員や官僚にこんなにも二人のファンがいたのかと思い知らされるとともに、
お二人の力があったからこそ
有機農業推進法やみどり戦略が形となってきたんだと、
改めて二人の急逝が悔やまれてならない。

 

「全有協」3代目理事長の下山久信さんは、
「二人と一緒に霞ヶ関と永田町を何度も行ったり来たりして、
 政策提言を繰り返してきた」と振り返りながら、
「みどり戦略ができ、これからの10年が日本農業再生の最後の機会だ」
と熱弁をふるった。

日本有機農業研究会理事長の魚住道郎さんは、
二人の同志として決意を語り、
水俣の『いのちの道』を熱唱して、二人に捧げた。

福島・二本松から駆けつけた菅野正寿さんは、
震災(原発事故)後、金子さんから支援を受けたことを紹介し、
「原発と有機農業は共存できない」と訴えた。

 

最後にご遺族からの挨拶があった。
金子友子さんは、テレビ局のアナウンサー時代に美登さんと出会い
(つないだのは菅直人さん)、
3千円(2千円だったか?)の会費で結婚式を挙げ、
以来45年間、二人三脚で歩んできた。
「有機農業運動の方々は個性派が多く、楽しかった」と懐かしまれた。

世志人さんの次女・清香(さやか)さんは、
奥様の明江さん(体調不良で不参加)から託された
「有機農産物が特別なものでなく、
  みんなが普通に食べられるものになるように」
とのメッセージを伝え、道なき道を開いてきた父をこう語った。

「父はどんな人にも扉を開いていた。
 そして、生産者が食べていけるようにしなくてはと、本当に苦心していた。
 しかし野菜を出す時は頭を下げながら、裏では父を商売人だと揶揄する農家もいて、
 なんでこんな人たちのために働いているんだろうと思ったこともあった」-と。

世志人さんは清香さんに、人生を飛び石になぞらえて話したそうだ。
自分の立っている所から石を投げ、拾った人(次世代)がまた遠くに投げる。
そうやって道をつくっていくんだと-。

 

終了後、別会場で懇親会が開かれ、歌手のYae さんも歌い、
最後は全員で 『ふるさと』 を合唱して、二人を偲びつつ散会となった。

 

世間では二人を「有機農業運動の第1世代」として語る方もおられるが、
正確には、1971年に「日本有機農業研究会」が発足して
運動が本格化した時代の 「若手」 組である。

それら先人たちから投げられた石は受け継がれ、
半世紀を経て、ついに国の農業政策のど真ん中までたどり着いた。
その石とは、 “ 種 ” でもある。
土台に埋め込み、水をやり、花を咲かせるのが、
拾った者の使命である。

数々の思い出話には、各々にその “決意” が込められていた。
僕もまた、改めて手を合わせ、決意を新たにしようと思う。

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