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暑い夏の終わりに

2018/08/31
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暑い夏の終わりに

恐ろしく暑かった8月も終わるけど、まだクソ暑い。
それでも少しばかり風は変わってきていて、
標高240mの丹那盆地に吹く今日の風はわりと爽やかだ。
夜には鈴虫の音も聞こえ、
秋がそこに来ていることを感じさせる。

丹那盆地の田んぼでは、穂も垂れ、登熟が進む。
こちらも収穫は早くなりそうだ。

暑さに弱い牛にとっても、
しんどい夏だったと思う。

函南東部農協・片野組合長の成牛舎は
「フリー・ストール・バーン」と言い、
壁がないので常に新鮮な空気が流れている。
夏は大型扇風機で風を送って気温上昇を防ぎ、
牛のストレスを柔らげる工夫がされている。
牛は自由に餌を食べ、歩き回ったり寝たりすることができる。

そうやって配慮された片野牧場でも、
今夏の乳量は1割ほど落ちたと言う。
全国的には2割以上の減だと聞いていたし、
熱暑で倒れる牛もいたくらいだから、
僕は素直に
「1割じゃ良かったですね。さすが」
と称賛したつもりだったが、
「1割だって大きいんだよ」と返された。
すんません・・・

自給率1%に満たない大都会で暮らしていては
分からない世界を、こうやって実感することがある。
やっぱり食の生産は身近にあったほうが、
社会は健全さを増すように思う。
いや、それは間違いない。

 

さて、福島県二本松(旧東和町)での話の続き。

菅野正寿さんの民宿に泊まった二日目(8月17日)、
僕と大谷くん(地元の人は大谷センセーと呼ぶ)は、
菅野さんが「ぜひ見せたい」という場所に案内された。

まずはこちら。
道路からすぐに、新しく作られた感じの石段が
藪の中を分け入るように伸びていて、
登っていくと古ぼけた小さな社にぶつかった。
道路脇に看板(これも新しい)がなければ、
誰もこの上に神社があるとは思わない。

神社の名前は「玉除(たまよけ)地蔵尊」と言った。
文字通り玉(弾)を除く地蔵という意味で、
明治の日清・日露戦争から昭和の太平洋戦争にいたる間、
戦地に赴いた兵士の生還を願って、
県の内外から多くの肉親が祈りに来たという。
堂内には出征兵士の名が書かれた旗や写真などが
今も残されている。

弾に当たらないよう願うとは非国民扱いされかねない
軍国主義の時代。
誰が考えたか、「多真除神社」という字があてられた。

出征兵士の家族たちはおそらく、人目を忍んでやって来ては
若者の無事を一心に祈ったんだろうと、菅野さんは想像する。
それが本当の庶民の心だったんだと。

戦後は忘れられ、すっかり荒れ果て道も消えていたのだが、
2年前の秋、東和遺族連絡協議会によって整備された。
藪を払い社の周りを整地し、道を作り直して
石段を並べ置き、手すりをつけ、看板を設置した。
看板には「世界の恒久平和を願って-」と書かれている。

菅野さんたちに、この急傾斜の道普請に駆り立たせたものは
何なのか。
「忘れてはいけない」という思いだけではないだろう。
今の時代に弾丸ならぬ一石を投じないと気が治まらない、
意地をかけた炎のようなものが汗をかかせたのだ。

そこには憑依もはたらいたように思う。
藪をかき分け登り、朽ちかけていた地蔵尊と再会した時、
ずっと待っていた霊がとり憑いた。
それを菅野さんたちは受け止め、道をつける力となった。
きっとそうだ。

 

次はこちら。
木幡山隠津島(こはたさんおきつしま)神社。
木幡山は標高666mの小山だが、
樹齢100年から300年を超す大杉に、
室町時代に建立された三重塔などの由緒ある建造物も残る
県の指定名勝天然記念物である。

隠津島神社本殿に参る。

しかし菅野さんが本当に見せたかったのは、
もっと市井の生き様が残るような遺跡である。

境内の遊歩道の、路傍に置かれた石に刻まれた
民衆の歴史の足跡。

「天明為民(てんめいいみん)の碑」。
この碑は明治35(1902)年、
三重塔再建用土台石を探索中に発見された。
銘文にはこう記されている。

  竹に花咲くは凶作のきざしと古老の言伝えたり、
  千時(ここにとき)天明二壬寅(みずえのとら)
  此御山の於竹花咲実なりて翌年枯れたり・・・
  夏より霖雨(ながあめ)降り続き、奥羽二国5穀実らず・・

天明3(1783)年の大飢饉による凄まじい被害を、
「常に非常の時に備えよ」の教えとともに
後世に伝えるべく刻まれた石碑は、
明治の神仏分離の令の際に埋められたということだ。

隠津島神社三重塔。
室町時代に建立され、伊達政宗の焼き討ちで
全山炎上するも生き残った。
その後2度の修復が行われている。

手前が二本松市街、
向こうに見えるのが、智恵子の愛した安達太良山。
菅野さんは「いいでしょう」と遠くを見つめる。

菅野さんは本当に故郷を愛しているのだ。
しかもたくさんの魂を背負っている。

大震災と原発事故を経験して、彼の胸の内は、
いや彼だけでなく多くの福島の生産者の思いは、
右でも左でもなく、
根源的なものへと向かっているように思えるのだった。
僕はここに来る資格があったのだろうか。。。

 

午後は樋口さんが用意してくれたランチ会に、
何人もの生産者が顔を見せてくれた。
東和ふるさとづくり協議会の佐藤佐市さん
羽山園芸組合の武藤さんに熊谷さん・・。
ありがたいと思う、本当に。
でも生産者が探しているのは、たしかな希望である。
僕はその用意もせずに来てしまっている。

力になれてない今の自分を恥じつつ、
何ができるのか悩みながら二本松をあとにした。
覚悟だけは固まっていたつもりでも、
飛んで火に入る、でしかなかったのかもしれない。

根源へと、向かいたい。
そんな問いをもって短い夏休みが終わったのだった。

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